· 

2023/07/22 昨日出たNewJeansの新しいEP「Get Up」を一日中聴いて考えたこと〜

2023/07/22

 

昨日出たNewJeansの新しいEP「Get Up」を一日中聴いて考えたこと、それをきっかけにnewjeansに限らずあらゆる音楽について考えたことをここにメモしておく。

※ちなみにこれは深夜に混乱しながらインスタの裏垢のストーリーでつらつら長文の感想を語ったときに書いたただのメモをもとにしているので、割とめちゃくちゃな文になっていると思う。

 

まず最初に、このepで特に気に入った曲、2曲についてパッと聴きの感想。

 

「ETA」について:

この曲、EbとFの二度関係でほぼメロディができてる。んで、4つのコードのうち3つがFを保続してる。前奏からずっとなり続けてるのは単音のFで、最初の段階で調性は判定しずらかった。

調性はBmだけど絶妙に曖味にしていて陽気な感じ。ブレイクビート+ブラジルのEDMぽい(追記:調べたら「ファヴェーラ・ファンク」、「バイレ・ファンキ」というらしい)

 

「ASAP」について:

声のサンプリング音源で音色を決定付けて、単音を強調、和音をチョップさせることで調性感覚を軽くしてるってとこではこの曲もそうかなあ。コードは超単純だけどサウンドが重視。ドラムの代わりに話し声でTikTokTikTokリズムを刻む。またはその別の姿としての時計の具体音。中間部ではチップチューンで分散和音をパーカッションの役割にしている。ポップの様相で複雑性を醸し出してアイデンティティを確立するには、和声構造ではなくオブジェを強調するってのが、現代の「ハイパーポップ」(広義のジャンル的な意味ではなく、直接の意味で)な大衆音楽が導き出した一つの回答。(これは僕が最近目指している音楽の形でもある...)

 

うーん。そんな視点から、現代のあらゆる音楽(アカデミックなものも含む)、理論構造として複雑化しすぎた音楽を観察してみる。

理論構造(和声、音列、旋律、もっというと音の羅列)でもって他との差異化、複雑性を出すというのは、最も単純かつ、ひねりのない"楽"なやり方で、僕は正直、安直すぎてつまらない気がしてきている(一部の人もそう感じていると思う)。その点をとっても、僕が誤って入ってしまった(苦笑)現代音楽コミュニティでの作曲は陳腐化していて、みんな同じことしかしない本当に閉鎖的なつまらない音楽と化していると感じる。もうまじで本当にほとんどクソとしか思えないし、その空間にいる今の自分もゴミすぎる。まあ要するに、

 

複雑な音楽でもって"奇異"を作り出すのは本当に簡単なことなのだ。

 

このことは痛いほど感じてきた。僕は3年前、それに少し気づきを得て、それから毎回のように反省しながら音楽を作り続けている。(その結果、僕の音楽は、新曲を重ねるごとに理論構造が単純化し続けている。でも、これは本当に難しい)

 

安直に複雑化した理論構造が原因となる視野の狭さは、表現や比喩の方法をも陳腐化させている。調性や音の羅列を感情や状況のメタファーとして用いるとき、その結びつけ方は画一化、規格化してしまう。悲しい音にはminor、楽しい音にはmajorという音楽情緒論に源流を成す思考体系は、理論構造による画一化という点で最もわかりやすい一つの例だが、それは現代音楽の複雑化した理論構造を観察していても似たようなものが見えてくることが多い。要するに、単純な表現しかできなくなってしまうということだ。

 

実際、具体音は、鋭い直接性を持たせるときも、メタファーとして用いるときも、理論よりも多様なことができると思っていて、実際、僕が現代の秀逸なポップスに感動するとき、そこに注目していることが多い。ビリー・アイリッシュの声帯の掠れ具合に、チェット・ベイカーの小声に震えるように、歌手の「歌声」で感動することもそれに関連する。当然、「具体音」というのは「記録」、「音源」をベースにしたポップスそのものと言ってもいい。

 

当然、何が正解だとか、必ず良いとか、そういうものはどこにもないのだが、僕が"良い"と思い、現代の世の中における"必然性"を感じる音楽というのは、今語ったように、音組織的な"composition"ではなく、具体音、"object"の方向にあると感じている。そこから「オブジェソノール」だのなんだのミュージックコンクレートを想起するようにクソ古臭いようにきこえるこのことは、実はまた別の様相を更新し続ける進行形のお話であるように感じる。newjeansのおかげでマジそう思った。クソデカ資本主義バカデカ消費社会の次元でしか見えてこないお話でもある(そこがおもろい)

 

ちなみに以上の話はあくまで「音」に限った話なので、歌詞については話していないことに注意。

※ 追記:ちなみにnewjeansは英語の歌詞が曲のほとんどを占めていることが多いが、その英語詩はほぼ単純であまり意味を持たない(当たり障りのない)言葉の連なり、ある意味、音でしかないように感じる。という点では、時もまたこのオブジェの性質に関連してるように思ったりもした。

 

※でもこんなことは、1960年代、アドルノの一連の論文(「聴取の退化」として語られた、形式の無効化)や、あらゆる研究、ポップスの事例でとっくに気づかれていたことだと思っている。だから、僕はなにも特別なことを言っていない。

 

うーん眠すぎて雑な文章になってるけどまあそんなことをnewjeansを通して再確認しています。

で やはりポップスについて考えると行き着くのは、総合的な美の意識なのだ。

 

以上。

 

7月22日 深夜。

本当に混乱した文だなあこれ。


追記: なぜ僕がnewjeansで大騒ぎしてるのかというと、クソデカ資本主義&バカデカ消費社会とハイ/ローカルチャー、あらゆる文化を左右する大きな思想の中に微かにでもアート的な面で先進的な姿勢を感じられたのがあまりにもワクワクしたから。そして、あまりにもかわいいから。