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涼宮ハルヒの聖地巡礼をしてみた。

大阪で用事があったついでに、その翌日、アニメ版、涼宮ハルヒの聖地巡礼を決行した。

朝の8時に阪急二宮駅北口の時計台前に着いて、そこから、ネット上で確認できたほぼ全ての聖地を巡った。全て徒歩で周り、夕方18時には最終目的地の西宮北高校に到着したが、TVアニメ版、時系列上の最終話 *「サムデイインザレイン」のラストシーンの夜景を見るために、凍えるような気温の中、日が暮れるまで坂道で1時間ほど待機した(聖地巡礼は場所だけでなく、時間を含む、「時空旅行」なのだ!)。

 

*『涼宮ハルヒの消失』の直前、2006年の第1期、放送順第9話、時系列順では第14話(最終話)、2009年の(第2期)第28話(最終話)

 

順路に関しては、Googleマップに落ちていた巡礼ルートがあったのでそれを参考に周った。

最初の時計台だが、これは一時は撤去され、しかしハルヒファンの熱い思いによって復活したまさに「メッカ」なのだが、細かい景色などは、当然ここ十数年で変化しつつある。

 

kwskはこちらの記事を:「西宮北口駅前に「ハルヒ時計」5年ぶり復活-4月12日に除幕式」

今回、聖地巡礼してみて特に興味深く心に残ったのは、現実とアニメを照らし合わせることで浮かび上がる差異、そこにある「二次元」と「平面」における創造力の美しさ。そして、作者の谷川流が育ったこの街の、極めて平凡で平和な「日常」と「退屈」から生まれる「人間原理」の物語だ。

 

現実とアニメを照らし合わせることで浮かび上がる差異は、大小ある。建物や背景の描写におけるアニメ特有の遠近法の歪み、実際にはあり得ないスピードで走る電車、風景の極端なデフォルメ(実際にそう見えるなら、実際にはありえない地形になる風景)などである。

 

しかし、ハルヒという作品でたいへん興味深く、感動するのは、そのあらゆる非現実が、ハルヒの心情による絶対的に超越した必然的な風景にほかならないという点。

 

まず、ハルヒというキャラクターについておさらいしよう。

 

見た目は超がつくほどの美少女で、成績優秀スポーツ万能だが唯我独尊、傍若無人、猪突猛進と周囲との折り合いが悪い。ツンデレ系。

ただの人間に興味が無く、宇宙人、未来人、超能力者、異世界人を探して一緒に遊ぶ事を夢見ている。なぜかキョン(物語の主人公)とは気が合うようで、キョンをむりやり巻き込みSOS団を結成する。

本人にまったく自覚が無いのだが、本人の無意識下の望みを具現化し、世界そのものを創造や改変してしまうという神に等しい能力を持っている。

その為、ハルヒを監視する為に、宇宙人、未来人、超能力者が彼女のもとに集まってしまった。

「宇宙人、未来人、超能力者」を彼女が求めた結果、都合よく現実になってしまったのだ。

だが、その事を知らないのはSOS団では当人だけ。

 

 

ハルヒについて、作中キャラクター、古泉一樹はこう言う。

 

「人間原理という言葉をご存知ですか?煎じ詰めて言えば、宇宙があるべき姿をしているのは、人間が観測することによって、初めてそうであることを知ったからだ、という理論です。われ観測す、ゆえに宇宙あり、とでも言い換えましょうか。」- 古泉一樹(「涼宮ハルヒの憂鬱」より)

 

 

というように、ハルヒはメタフィクションSF的性格を持ち、ハルヒというキャラクターは、完全にフィクションの「書き手」的な原理で動いている。そのため、明らかに非現実で、デフォルメされた都合の良いことが起きまくる物語かつ、その物語こそこの作品の本質なのだ。

 

例えば、時系列上、テレビアニメ版最終話の「サムデイインザレイン」では、物語の冒頭で「降水確率10%」ということが明らかだったにもかかわらず、ハルヒが「主人公と相合傘をしたい」という願望によって雨が降った(しかし本人は気づいておらず、登場する人物のほとんど全員が偶然の異常気象だと思っている)。*ちなむと俺的この作品最大の萌えシーンかつエモシーンはここだと思っている。

 

この出来すぎた物語が、メタフィクションとしての重要な要素になっている。すなわち、このアニメは、実際はデフォルメされて歪んだ景色とか、現実的ではない描写とか、それらは全部言い訳できる状態というか、むしろそれが物語を補強する本質的な要素になっている。

 

特に今回の聖地巡礼でそれを感じたのは、踏切の聖地だ。

この転載動画のタイトルでで突っ込まれているとおり、ここは急カーブで、アニメのようなスピードで通過したら脱線してしまうのだ。実際、僕もここで、アニメと全く同じ車両が、全く同じ踏切を通過するのを全く同じ画角でもってこの目でみたが、びっくりするほどゆっくりなスピードだった。

 

しかしこれもまたハルヒの超越した存在を通して見ると、鋭いアクチュアリティを感じる。

 

 

ハルヒ 「あんたさ、自分がこの地球でどれほどちっぽけな

存在なのか、自覚したこと有る?」

 

〜〜〜電車が踏切を通過する〜〜〜

 

キョン(電車のお陰で俺は、ここで突っ込むべきなのか、

何か哲学的な引用でもしてごまかした方がいいのか、

考える時間を得た。)

 

キョン「そうか。」(こんなことくらいしか言えない自分がちょっと憂鬱だ。)

 

ハルヒ「帰る。」

 

キョン(俺もどっちかといえばそっちから帰ったほうが早く帰れるんだが、しかしハルヒの背中は、無言で「ついてくんな」と言ってるような気がして、俺はただひたすらに、ハルヒの背中が見えなくなるまで、その場に立ち尽くしていた。)

 

 

前述した通り、ハルヒの思ったことが全て現実になる世界として考えると、このシーンの中で語られるように、ハルヒの微細な心の変化、無言の「ついてくんな」という気持ち=「今電車が来て、一瞬で過ぎ去って、何も話さずにいたい」という思いが電車を走らせたと考えられる。電車が轟音を立てて通過した現象自体、ハルヒの願望そのもので、非現実的な辻褄なのではないだろうか。そう考えると、この現象自体が、極めてエモーショナルな超常現象であるように感じる。ここに僕は、「フィクション」、「虚構」の持つ美しさを強く感じた。これは、ここに来てみないと実感できなかったことだった。

 

 

 

そして最後に、今回の聖地巡礼で感じたのは、作者の谷川流が育ったこの街の、極めて平凡で平和な「日常」と「退屈」から生まれる物語。この街はどこを周っても閑静で、何もかもが平和に映った。しかし、ここでずっと過ごすことは「退屈」とも捉えられるものだと強く感じた。ハルヒの「退屈な日常を変えたい」「平凡を越えたい」という願望から生まれた、神のような能力、「人間原理」の物語の原点を強く感じる、極めて「日常」な街だと感じた。

 

アニメ史において、ハルヒは一般的に「セカイ系」と「日常系」の分岐を描いた作品と言われる。* 第6話における「日常の素晴らしさ」を説くキョンと、「非現実のセカイ」を求めるハルヒ、その2人の問答とその物語の行く末、映画「涼宮ハルヒの消失」におけるその究極の世界分岐の物語を振り返ると、アニメ史における「日常系」の境界が立ち現れたその原点の地、聖地、メッカをここに感じることができた。

 

*京アニは「涼宮ハルヒの憂鬱」を境にして、その後、「らき☆すた」「けいおん!」など、伝説的な「日常系(空気系)」作品の制作にシフトした。

 

 

 

てな感じで、今回の感想はおしまい。とても疲れたけど美しい1日でした。なんといっても、一見の日常の景色を、こうして冒険や非現実に変える作品の魅力といったらとてつもないものです。

 

下に旅の記録画像を貼っておきます。

以下、旅の記録画像。